日本のワインのルーツを訊ねて 取材報告  (by えつこ)

山梨県勝沼町  メルシャン勝沼ワイナリー
        マンズ勝沼ワイナリー

第 4 話

 メルシャン勝沼ワイナリーを後にして徒歩で丘を登ること5分。「葡萄酒資料館」に到着です。
   
 それでは中に入る前に、ここで少し日本のワインについての歴史的な経緯をご紹介しましょう。
 日本で最初に栽培されたといわれる日本古来のぶどう「甲州種」は、その発祥は勝沼であるといわれています。そして、日本に初めてワインがもたらされたのは室町時代後期の1549年(天文18年)ポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルによってと記録されています。長い鎖国の時代を経て、日本におけるワインへの目覚めは、明治に入ってからになります。
 明治維新。流れ込む文明開化の中で日本のワインづくりは開始されました。
 大久保利通が推し進めた殖産興業政策、それを受け継いだ前田正名らの努力の中でその第一歩がしるされたのです。
 前田正名(1850〜1921)は「興業意見」の編纂や、またいわゆる「前田行脚」による地方産業振興運動、農村計画運動などの実践活動によって、近代日本経済史上に名を残しています。
 明治2年から7年間に及ぶフランス留学の後に、国内産業振興によって貿易を盛んにし、外国列強に伍さなければならないと決意した前田は、大久保利通の主張する殖産興業政策と結び、その具現者として、またその後継者として活躍しました。
 前田がその活動の当初、最も力を注いだものの一つがワインづくりでした。殖産興業政策の具体案として最適な産業であると考えたのです。壮大なその構想は実現しませんでしたが、2人の伝習生のフランス派遣や三田育種場・播磨葡萄園の設立など日本のワインづくりに果たした貢献ははかり知れないものがあります。

 ぶどう栽培に最も適した所は、昼の間に充分な日照を受け、降雨量が少なく、水はけがよく、夜間によく冷やされる土壌と気候をもつことが条件とされています。
 その日本のぶどうのふるさとというべき勝沼の地に明治10年(1877年)今から120年あまり前、祝村葡萄酒会社(大日本山梨葡萄酒会社の通称)が創立されました。これが日本のワインづくりの夜明けでした。
 その年、10月10日、高野正誠25才、土屋龍憲19才という2人の青年が本場フランスのワインづくりを学ぶため伝習の旅に立ちました。この写真はフランスで撮られた写真で出発の時に天皇から拝領した帽子を大切にかぶっている様子がうかがえます。2人はまったくフランス語が出来ずに苦労しながらフランス国内のいたる所で醸造技術の習得に励み、技術を学んだそうです。その様子は、昭和52年春、土屋家のぶとう畑から偶然に発見された当時の日誌や往復書簡などからその旅の全容が明らかになったのだそうです。
 2人の帰国後、その知識をもとに祝村葡萄酒会社は醸造を開始しました。フランスで見聞したワインの醸造器具は、そのままコピーされ、当時は本場仕込みのめずらしい器具として使用されました。こうして恵まれた気候風土を持つすばらしいぶどうの産地・勝沼で本格的な日本のワインづくりの第一歩がしるされたのです。
 そしてその後、宮崎光太郎に受け継がれて宮崎もその一生をワインづくりとその普及に捧げました。
 この葡萄酒資料館は明治37年に宮崎第2醸造場として建設されたものです。現存する日本最古のワイン醸造場として、この建物自体が貴重な資料となるものです。平成9年5月に県の文化財に指定されました。
 それでは概要のご案内です。
 建設は今ほどご説明したように明治37年にワイン醸造場として建設され、昭和49年9月にワイン資料館として開館しました。面積は625平方メートル。開館時間は午前9時から午後4時まで。休館日は12月から7月までは火曜日となっています。
 それではいよいよ「葡萄酒資料館」の内部をご紹介しましょう。
    …第5話につづく…

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